人形たちは、魂を水晶の函に仕舞っていた。体はこの世に置きながら、心は違う世界に逃がして、自分を守っている、そんな眼をしていた。
このひとも人形を欲望の客体だと思っているのか。
私が人形になるのは、私の魂を決してあなたに触れさせないためなのに。
人形は、触れてもいいよとは決して言わない。
私はあなたの欲望を是認しない。
川野芽生『かわいいピンクの竜になる』左右社、62, 63-64頁。
人形たちは、魂を水晶の函に仕舞っていた。体はこの世に置きながら、心は違う世界に逃がして、自分を守っている、そんな眼をしていた。
このひとも人形を欲望の客体だと思っているのか。
私が人形になるのは、私の魂を決してあなたに触れさせないためなのに。
人形は、触れてもいいよとは決して言わない。
私はあなたの欲望を是認しない。
川野芽生『かわいいピンクの竜になる』左右社、62, 63-64頁。
2002年9月3日(火)
ベッドの脇の椅子に人形は腰掛けていて、ベッドから手を出せば彼女の手を握ることができる。
私の体温がうつってかすかに暖かくなるのがかなしくてすぐに手を離す。なんだか汚染してしまうような気がするから。
どうか私の愛があなたをあたたかくやわらかく呪っていくことがありませんように。
腐肉でできた私の愛にあなたが汚れませんように。
あなたの前で私は自らを律します。
ともすればどろどろとみにくく崩れ落ちていく私のこころを恥じます。
私の中の一番大事な輝かしいもの、結晶のようなもの、それをまもっていきたいと思います。
あなたよ決して私を赦さないでください。私を受け入れないでください。
美しく稀なるなにかを忘れがちになる私を。
二階堂奥歯『八本脚の蝶』河出文庫、2020年、255頁。

《父の情景》1981│ビデオ(オリジナル:16mmフィルム)
作家の父親の死に際して制作されたという。小さな女の子の人形が、ぽたりぽたりと落ちてくる赤黒い臓腑と薔薇の花びらとに埋もれてゆく。陽光のもとさざめく木の映像が眩しくて、両者の映像の佇まいの落差が瞼の裏に灼きついている。
「出光真子 おんなのさくひん――ある映像作家の自伝」
2026.6.18 (木) — 9.21 (月・祝)東京都写真美術館
出光真子(1940–)は、日本における実験映画およびビデオアートの先駆的な作家です。1960年代にアメリカ滞在を経て制作を始め、女性の生き方や家族、メディアと社会の関係を主題に、フィルムや当時のビデオを用いた作品を発表しました。とりわけ1970年代以降のビデオ作品では、テレビ・メロドラマの語法を取り入れながら、母と子、夫婦関係、女性の社会的役割といったテーマを独自の視点から描き出しています。近年は、ジェンダーや身体をめぐる国際的な議論の高まりのなかで、その実践があらためて注目されています。本展は、出光の創作活動の全貌を振り返る大規模な回顧展です。当館で収蔵する全作品を、展覧会と上映により網羅的に紹介します。
アナトール・フランスの『シルヴェストル・ボナールの罪』に人形を欲しがる男の子が登場すると、キャンパスですれちがいざまに教えていただいた。
私は少年時代の欲望を思い出す。幼かった頃のはげしい物ほしさがいま私には何とよく理解できることか。
十歳のころセーヌ街のとある貧弱な店先に陳列してあった一つの人形がいまも不思議なほどはっきりと目に浮かぶ。どうしてその人形が好きになったのか、それはわからない。私は男の子であることが大の得意であった。女の子を軽蔑し、痛い髭が頤に生える時(ああその時はついに来た)を待ちかねていた。兵隊ごっこをしたり、遊動木馬に餌をやろうと、母が窓辺に作っている丹精の植木を荒らしたりした。けだしこれらは男性的遊戯であろう。しかも私は人形がほしかったのである。ヘラクレスのような豪傑にもこんな弱味はあるものだ。私の好きな人形はせめて美しくはあったろうか。いな、それは今でも目に残っている。両類には朱色の斑点がついていた。
ふにゃふにゃした短い腕、醜悪な木の手、左右にひろげた長い脚。花模様のスカートが二本のピンで胴につけてあった。この二本のピンの黒い頭が今でも目に見えるようである。いかにも場末くさい下品な人形であった。当時まだほんの子供であり、半ズボンもたくさんはきつぶしてはいなかったけれど、この人形には品もたしなみもないこと、下卑てがさつだということを、私は私なりに、しかも痛切に感じていた。それにもかかわらず好きなのである。いな、それゆえにこそ好きなのである。ただ一途に好きなのである。ほしいのである。兵隊の人形も太鼓も、もう眼中になくなった。遊動木馬の口にヘリオトロープやヴェロニカの杖をもう突っ込みはしなくなった。
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おパリを少し思い出せたりするかなと思って足を運んだ長谷川潔展、この人の描く少女や女性はなかなかに人形的ではないのと虚をつかれつつ歩みを進めていたら、それはたいへんな少女のお人形の作品たちに出逢ってしまいました。
閉じ込められた部屋のなかで虚空を見つめる瞳、忘れられ打ち棄てられた軀から伸びる四肢は当然に艶めかしくて、人間からどんな目に遭わされようとも、いえ遭わされるからこそでもあろうけど、貴女たちはどんなときでも不遜なほど気高くて、狡猾なまでに蠱惑的なのです
……って、貴方(版画家)の人形観、きっとそういうのなのでしょう、いやほんとに、そうだよね!って勝手にひとり盛り上がり、一方的に共鳴するのでした。そんなつもりで来たわけではなかったのですが。
おパリについては、藤田嗣治と滞在時期がかなり重なっていながら交流の記録はほとんど残されていないという、そのことがわかるような、わからないような。でも二人とも、人形に愛着を抱いていたことがよくわかりました。
町田市立国際版画美術館所蔵 長谷川潔展──パリに生きた銅版画家の軌跡
パナソニック汐留美術館
2026年7月11日(土)~2026年9月23日(水・祝)